【レポート】箸墓古墳に行ってみた1/2 (稜樂會 小山田 宗治)

このエントリーをはてなブックマークに追加

 私が邪馬台国の所在地である学説「畿内説」を学んだのは大学の 授業だった。それまでの私は、邪馬台国に関する学説として九州説 と畿内説の二種類がある事は知っていたが、何故に二か所に分かれ ていたかまでは知る由も無かった。畿内説に於いて、重要な舞台に なるのは奈良県桜井市に展開していた、纏向遺跡(まきむくいせ き)と箸墓古墳である。

古墳南側の農道から、古墳正面を望む 箸墓古墳は、宮内庁によって大市墓とされ、葬られているのは第 七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひ め)であるが、この人物がなんと卑弥呼ではないだろうかと言うの である。しかも、「ヒミコ」と言うと人名に思われがちであるが、 実は邪馬台国における「役職名」であって人名では無い。他にも驚 きの連続だった。私はここに、大学の授業の楽しさと怖さを身を以 て体感した。

このレポートは、卑弥呼と箸墓古墳にについて、実際に現地に 行ったリポートも含めて書いてみたいと思う。私自身、本来の専門 は同人界隈では音楽である。他の方々と比べ読みづらい文章、表現 があると思うがご容赦願いたい。

先ず邪馬台国やヒミコが纏向遺跡にどの様に関わってくるのか、 私の大学の授業ノートを元に纏めてみたいと思う。

「邪馬台国」は、稲作革命により稲の収穫量が飛躍的に向上した 事を背景に次々と生まれた国、「倭国」全体の首都的な立場であっ た。「倭」は「わ」であるが「やまと」とも読む。「邪馬台」も同 じく「やまと」と読む。「やまと」の語源を調べてみると、「ヤマ ト」の元々の語源は普通名詞の「山処(やまと)」と考えられ、山 の麓、山の麓の一帯という意味である。今日では「ヤマト」と言う と、例えば宇宙戦艦ヤマトなど、勇ましい雰囲気を出しているが、 この場合のヤマト(山処)はいかにも奥ゆかしい「大和まほろば」 の世界ある。この麓はどこかというと、奈良県桜井市の三輪山であ る。三輪山は大神神社の御神体そのものであり、「神体山」や「神 奈備」とも言われる。この事からも、大神神社の鎮座地である三輪 近辺は果てしないパワーに満ち溢れていたことが分かるだろう。

話が脱線したが、三輪山の麓の「やまと」が大きくなり、「倭 国」を「やまと」と言う様になった。その三輪山の麓にあったのが 纏向遺跡。倭国の首都である邪馬台国があった場所では無いかと言 われている地である。

纏向遺跡は3世紀から4世紀にかけて栄えた都市である。遺跡か らの出土品を見てみると土器の出土品に特徴がある。多くが纏向以 外から持ち込まれたものが多い。つまり、様々な地方の人間が集ま り人口を形成していた事を表す。3世紀中ごろ、纏向遺跡の中に前 方後円墳形式の古墳が築かれた。箸墓古墳である。日本書紀におい て「昼は人が造り、夜は神が造った」と書かれている事で有名な古 墳である。葬られているのは、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモ ソヒメ)。孝霊天皇の皇女であるが、単なる皇女の墓としては大き 過ぎる。徳島県の考古学者 笠井新也先生による邪馬台国畿内説に よると、この箸墓古墳がヒミコの墓だろうと説いている。

かつての古墳時代は4世紀ごろからと言われていた。私も学校で その様に習った覚えがある。しかし、今日では3世紀中ごろまで更 に遡ると言われている。3世紀中ごろ・・・正にヒミコが死去した 年代にも重なる。更には中国の書物「魏志倭人伝」では、ヒミコが 亡くなり大きな墓を築いた記録が残っている。これほど亡くなった 際の記録が残っているのだから、邪馬台国においてのヒミコの地位 は凄く大きなものだったのは推測出来る。では、ヒミコと、ヒミコ と言われたヤマトトトヒモモソヒメとはどの様な人物だったのだろ うか想像をしてみたいと思う。

やおよろず-日本の神様辞典-

言霊-日本の物語を語り継ぐ-